アゼルバイジャン共和国とは
■目次
1. 概要 2. 国名の由来 3. 歴史 4. 言語 5. 宗教 6. 地理 7. 首都バクー 8. 交通機関 9. 人口構造 10. エネルギー 11 科学技術 12. 医療 13. 教育 14. 美術 15. 文学 16. 音楽 17. 映画 18. 競技 19. 建築 20. 通貨マナト
1. 概要 2. 国名の由来 3. 歴史 4. 言語 5. 宗教 6. 地理 7. 首都バクー 8. 交通機関 9. 人口構造 10. エネルギー 11 科学技術 12. 医療 13. 教育 14. 美術 15. 文学 16. 音楽 17. 映画 18. 競技 19. 建築 20. 通貨マナト
1. 概要
2. 国名の由来
「アゼルバイジャン」という言葉の由来は諸説あります。一説には、パルティア語または中世ペルシャ語でアトロパテナと呼ばれる古代の州の名前であるアトゥルパタカン (Āturpātakān) が元であると考えられています。 アレキサンダー大王の侵攻後、アケメネス朝のメディア総督アトロパテスが王国を築いたメディアンは、アトロパテメディアまたはアトロパテナと呼ばれました。一方、中世アラブの地理学者は、アダルバドールという個人名からの民俗語源であると解釈しています。 アダルバドールは、火の神殿または火の守護者 (アダル:火、バイカン:守護) を意味します。 アラブの地理学者で旅行者のヤクート・アル・ハマウィもこの説を支持していました。
19 世紀のアゼルバイジャンの歴史家アバスグール・アーガ・バクアノフは、クラミー運動の有名な司令官であるBabekと関連付けています。 バベクは、アッバース朝に対するクラミの反乱を率きました。 バキハノフは彼のGülustani-Iramに「おそらく、アゼルバイジャンという言葉は、アラブ人がアゼルババジャンと発音し、「ババケンの火」を意味するアゼルババガンという言葉に由来する」と書いています。
3. 歴史
古くは後期旧石器時代から居住された痕跡があり、国家としての歴史は5000年前に遡ります。紀元前4千年紀末から3千年紀初めにかけて、ウルミヤ盆地で最初の国家または民族政治団体が形成されたと考えられています。紀元前9世紀にスキタイ人が侵略したのち、紀元前6世紀にアケメネス朝に征服されたことで拝火教が広まりました。紀元前1千年紀には、マナ、スキタイ王国、アトロパテナ、アルバニアなどの州が存在していました。3世紀にサーサーン朝に占領されると4世紀にキリスト教が国教となりますが、7世紀にアラブカリフ国に占領されたことでイスラム教が採用されるに至りました。11世紀以降に中央アジアからテュルク系民族が流れ込むと、土着のペルシャ人、クルド人、アルメニア人、カフカス系諸民族やロシア人などと混血して現在のアゼルバイジャン人が形成されていきます。16世紀にサファヴィー朝が支配したことで、今も続くイスラム教シーア派の基盤が形成されました。19世紀、グルスタンとトルクメンチャイの合意により、アゼルバイジャンは2つの帝国に分割されました。北はロシアに、南はハジャールが支配するイラン王国に加わった形です。1918年5月28日、東部で最初の民主共和国であるアゼルバイジャン民主共和国が北部に設立され、1922年12月30日に独立、ソビエト社会主義共和国連邦の設立と、コーカサスの組み込みに収束しました。1922年に国の新たな憲法が採択されて以来、アゼルバイジャンは大統領と議会によって統治される共和国として存在しています。
古代
最も古い考古学的資料は170〜180万年前の原始人に遡ります。アゼルバイジャン南西部、小コーカサス山脈の南東斜面に位置するアジフ洞窟は石器時代の集落として知られ、グルチャイ文化、アケリア文化、ムスティエ文化の時代に人が住んでいたことがわかっています。中石器時代は、主にゴブスタンの岩絵と考古学的発見が研究され、2007年に世界遺産に登録されています。ビュユクダシュ山にあるペトログリフの牛は1万5千年前に遡り、この時期から原始人の間で生産経済が形成され、陶器も作られ始めたようです。新石器時代になると定住型農業が形成され、大麦や小麦などの植物を育てたり、石や骨から工芸品を作ったりしはじめました。
国家の歴史は5000年に及び、紀元前4世紀の終わりから3世紀初めにかけて、ウルミヤ盆地で最初の国家または民族政治団体が形成されました。紀元前1千年紀には、マナ、スキタイ王国、アトロパテナ、アルバニアなどの州が存在しており、アゼルバイジャンの国家行政の発展や経済的・文化的な歴史に関わっていきます。
封建時代
3世紀にはアゼルバイジャンはサーサーン朝に占領され、7世紀にはアラブのカリフ制に占領されました。これによりイランとアラブ系の人々が流れ込み、国の人口の大部分を占めたことは、軍事的・政治的な組織化が単一の国を形成する過程で重要な役割を果たしました。この時期から、少数派民族間のコミュニケーションにトルコ語が用いられるようになりました。南北の接続にもトルコ語が用いられ、当時の統一国家形成において重要でした。当時はアゼルバイジャンの領土全体をカバーする単一の宗教がなかったため、神への崇拝のほか、拝火教などの自然崇拝が残っていました。アルバニアの北部、特に山岳地帯ではキリスト教が広まりましたが、独立したアルバニアの使徒協会は、隣接するアルバニアやグルジアの境界との激しい競争の中で運営されていました。7世紀にイスラム教が採用されると、統一国家と言語の形成を促進し、親族関係の拡大、ひいては領土全体における融合を加速しました。 9世紀半ばからは古代国家の伝統が復活し、サジ、シルヴァンシャー、サラリス、ラヴァディス、シャダディの5つの州が設立されました。アラブのカリフ制が衰退したことを受け、トルコ・イスラム帝国の役割が重要性を増し、15世紀以降に強まっていきます。特に15世紀は中央集権が進み、クルアーンもアゼルバイジャン語に翻訳されました。16世紀初頭にシャー・イスマイル・ハタイ(1501-1524)によって南北が統一されたことをもって、アゼルバイジャン語を国語とするサファヴィー朝が成立します。
新時代
19世紀、南コーカサスに侵略したガジャールと帝政ロシアとの戦争を経て、グルクスタンとトルクメンチャイの条約が結ばれ、北はロシアに、南はイラン王国に併合されます。ロシアは近隣諸国から多数のアルメニア人を送り、アルメニア国家の基礎が築かれました。続いて独立したアルバニア教会を1836年に廃止し、アルメニア使徒教会の下に置いたことでアルメニア語やグレゴリオ語(アゼルバイジャンの古代人口であるキリスト教徒アルバニア人の言語)化が有利に進み、アルメニア人の領土主張の基礎が築かれました。さらに帝政ロシアはアゼルバイジャン人や南コーカサスのトルコ系イスラム教徒全体に対するジェノサイドを始めました。こうして始まった北部の自由闘争においてダシュナク・ポリシェビキ政府は1918年3月にジェノサイドを実行します。同年にヌル・パシャ率いるオスマン帝国軍とアゼルバイジャン民主共和国軍からなるコーカサス・イスラム軍がバクーの戦いに勝利したことで、1918年5月28日、北部にアゼルバイジャン民主共和国が設立されました。1919年にはバクー州立大学が設立されています。ソビエト連邦内
1920年4月28日にアゼルバイジャンはソビエトの一部となりますが、国は独立を維持し、ロシアとの軍事経済協定が調印されました。しかし、独立した権力はソ連からの圧力を受け、石油産業の管理のためにアゼルバイジャン石油委員会が設立されました。1920年3月17日、コーカサス戦線からソ連の軍事革命評議会に送られた電報の中で、北アゼルバイジャンの占領を命じたレーニンはバクー占領の重要性を述べています。その後ソ連の全体主義国家政権により、活動や信念の相違を理由に10万人以上が抑圧されました。第二次世界大戦においても、石油の産地であるバクーは重要視され、アドルフ・ヒトラーの命令でバクーの重要な場所について正確な地図が作成されたこともありました。戦争中、ソ連で生産された石油の3/4、航空ガソリンや高品質の石油の90%近くがアゼルバイジャンで消費されたと考えられています。アゼルバイジャン出身の123人がソ連から英雄の称号を授与されました。
1980年代後半から1994年5月にかけて、アルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国が支援するカラバフのアルメニア人の間で戦争が発生しました(ナゴルノ・カラバフ戦争)。1988年2月20日にナゴルノ・カラバフ自治州議会がアルメニアとの統合を決定した後、党派間の争いが起こり、アゼルバイジャンからの分離に至ります。 アゼルバイジャンがSSRからの独立を宣言した後、アルメニア人はアゼルバイジャンからの撤退を決定し、未承認のナゴルノ・カラバフ共和国の独立を宣言しました。
第三共和制
1990年1月19~20日、旧ソ連軍が非常事態を宣言せずにバクーに入り、民間人が殺害される事件が発生しました。この反響はアゼルバイジャンの独立運動を加速させ、1991年10月18日、ソ連は国家独立に関する憲法を採択し、12月30日に国民投票によって承認されました。 アルメニアとの大規模な戦闘が1992年の冬に始まりましたが、ロシアの支援により停戦が成立、紛争解決のためにOSCEミンスクグループが設立されました。1994年9月20日、バクーのフルスタン宮殿で西側の石油会社と締結された石油協定は、カスピ海の油田の共同開発と石油の流通につながりました。2011年からは国連安全保障理事会の非常任理事国に選ばれています。 2020年に第2次ナゴルノ・カラバフ戦争が勃発すると、1ヶ月半の戦闘を経て事実上アゼルバイジャンがアルメニアに勝利する形で停戦合意が結ばれました。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の仲介でしたが、その後ウクライナ侵攻のためにロシアの停戦監視部隊が引き抜かれたことを受けて、2022年9月には軍事衝突が再発しました。
4. 言語
現在の公用語はアゼルバイジャン語です。テュルク系言語の1つであり、オグズ語派に属し、テュルク語、トルクメン語やガガウズ語とともにテュルクの南西グループを形成しています。15の母音と25の子音があり、これら40の音素は32文字で表されます。文字はラテン文字に基づき、公立・私立の学校では、授業はアゼルバイジャン語、英語、ロシア語で行われています。これをアゼルバイジャン語で書くと↓。なんとなく対応する語が分かりませんか?
Dil
Azərbaycan Respublikasının rəsmi dövlət dili — Azərbaycan dilidir. Azərbaycan dili geneoloji təsnifata görə türk dillərindən biri olub, həmin dil ailəsinin oğuz qoluna daxildir və ən yaxın qohumları olan türk, türkmən və qaqauz dilləri ilə birlikdə ərazi prinsipinə görə türk dilləri arealının cənub-qərb qrupunu təşkil edirlər.Azərbaycan dilinin fonem tərkibində 15 sait və 25 samit vardır. Bu 40 fonem Azərbaycan əlifbasında 32 hərflə işarə edilir. Hazırda Azərbaycanda latın qrafikası əsasında yaradılmış Azərbaycan əlifbasından istifadə edilir. Dövlət və özəl məktəblərdə dərslər azərbaycan dilində keçirilir, eləcə də, ingilis və rus dili tədris olunur.
5. 宗教
アゼルバイジャン憲法第48条により、国民には宗教の自由が保障されています。2015年の統計によると、人口の93.4%がイスラム教徒、3.1%がキリスト教徒、0.5%は他宗教、3%は無宗教です。国内にある784の宗教団体のうち、28団体は非イスラム教とする報告があります。イスラム教人口の85%はシーア派で、15%がスンニ派です。キリスト教徒の大多数はロシア正教です。国内の2万人のユダヤ人コミュニティも併せて、その多くがバクーに住んでいます。シーア派、スンニ派、ロシア正教、およびユダヤ人は、この国の伝統的な宗教グループと見なされています。ルーテル派、ローマカトリック教徒、バプテスト派、モロカン派、セブンスデー アドベンチスト派、バハーイー教徒の小さな共同体が 100 年以上にわたってこの国に存在してきました。1991年のアゼルバイジャンの独立以来、ワッハーブ派とサラフィストのイスラム教徒、ペンテコステ派、およびエホバの証人やハリ・クリシュナを含む他の福音派キリスト教徒が、政府によって外国または「非伝統的」コミュニティと見なされる宗教団体として出現しています。ロシア正教会またはアルメニア正教会のメンバーは、人口のごく一部を占めています。
6. 地理
地球上に2000以上ある泥火山のうち344は、アゼルバイジャンの東と、隣接するカスピ海盆地にあります。国内には9つの国立公園、11の国立自然保護区、24の州立自然保護区があります。アゼルバイジャンの5つの島はクーディッリ、ピララヒ、チロフ、ハレジラ、ビックジラです。国境3489kmのうち825kmはカスピ海に接しています。地震が起こりやすいことでも知られています。
生物多様性が特徴で、97の哺乳類、357種の鳥類、67種の両生類と爬虫類、97の魚類、15000以上の無脊椎動物、1種のラウンドマウスが確認されています。
国土のほとんどが亜熱帯気候で、4〜5月の穏やかな冬(平均4℃程度)と10月頃の暑い夏(平均26℃程度)が特徴的です。日当たりが良い一方、降水量の多い南東部では冬を中心に1200〜1400mmが注ぎます。
7. 首都バクー
バクーには、4世紀ごろに流入したキリスト教、7世紀に持ち込まれてから広まったアラブのイスラム教と、隣接するヨーロッパから来たキリスト教、その他18世紀ごろなどに住んでいた住民が建設した宗教施設などが混在し、複雑な歴史を反映しています。現在の主な宗教はイスラム教で、世界でも少ないシーア派が多数を占めています。さらに都市部には石油で築いた豊かさを感じさせる近代的な建築物が並び、独特な街並みを形成しています。城壁で囲まれた王朝時代の街(旧市街)を帝政ロシア時代の街が取り囲み、さらにソ連時代の建物が取り囲む形です。旧市街には干し煉瓦造りの建物や入り組んだ通りが保存され、世界遺産でもある乙女の塔や宮殿、浴場、隊商宿など、歴史的な街並みが広がっています。
8. 交通機関
1997年以来、アゼルバイジャンはヨーロッパの道路交通の一般規則と安全基準を定めた国際ウィーン条約に加盟しています。共和国運輸省には「自動車輸送サービス」部門と「道路輸送サービス」部門が設けられています。国内に7つある国際空港の中で最大のヘイダル・アリエフ国際空港はAZALとButa AIrwaysの入港地で、バクーの北東20kmに位置し、高速道路によって都市に接続しています。1880年に国鉄が開通して以降、バクーからチュメニ、ロストフ、ハリコフ、キエフ、サンクトペテロブルク、モスクワ、マハチカラまで運行しています。アゼルバイジャン、ジョージア、トルコを結ぶバクー=トビリシ=カルス鉄道も2017年から操業しています。地下鉄であるバクーメトロには25の駅、1つの電気所、36.6kmの3つの路線があります。
9. 人口構造
2022年現在、アゼルバイジャンの人口は1030万人です。人口分布は2017年の調査によると、53%は都市部、47%が農村部であり、49.9%が男性、50.1%が女性です。91.6%をアゼルバイジャン人が占め、その他少数民族が8.4%を占めます。先住民の中でも支配的なのはレズギ人、アルメニア人、ロシア人、タリシュ人、アヴァール人のような小規模な民族グループです。アゼルバイジャンの国家機関では、さまざまなマイノリティの代表者が含まれています。1995年に採択された憲法では、出身や人種、宗教、言語に関係なく、全ての人の権利と自由を尊重することを保証しています。1991年以降、人口は流出量が流入量を上回り、外部への移民は主にロシアで就労していました。現在では国内の移動にとどまり、バクーやその周辺に集中しています。2000年台に石油生産と輸出が増加したことで、国民所得が増大したことも影響しています。
10. エネルギー
19世紀末からの石油ブームに乗り、ロシア帝国の石油産業家やロスチャイルド家、ノーベル家が石油ビジネスにバクーを利用しました。その後石油の開発はモスクワに駐在する党職員によって管理されますが、1990年台初頭にアゼルバイジャンが独立したことで、国内主導の石油採掘が活発になりました。石油埋蔵量は70億バレルで世界19位、生産量で世界23位、ガス埋蔵量は8,495億m3で世界28位です。2015年には、エネルギー製品の 87.5% が一次エネルギー製品、9.2% が石油精製製品、3.3% が熱と電気でした。変換部門は 92.9% が天然ガス、7.0% が燃料油、0.1% がディーゼル燃料でした。最終消費のうち家庭は 37.7%、運輸は 26.6%、産業と建設は 23.1%、その他の経済部門は 12.6% を占めています。 国の代替および再生可能エネルギーの分野における管理システムを改善するために、2013年に専門の国家機関が設立されました。11. 科学技術
1993年からインターネットが発展し始めると、1994年にアゼルバイジャン科学アカデミーによって最初のwebサイトが作られ、国家機関からはアゼルバイジャン共和国大統領のwebサイトとして1997年に作成されました。.azドメインの管理は1993年から行われています。 アゼルバイジャンでのラジオ放送は1926年11月6日に、テレビ放送は1956年2月14日に放送が始まりました。現在、国内の人口密集地域の99.6%は、10〜12のテレビ番組からなるデジタルテレビ放送によってカバーされています。また、複数のTV放送サービスが、ガンジャ、グバ、ランカラン地域とその周辺において、有料で提供されています。アゼルバイジャンの国家宇宙機関として国立航空宇宙局(MAKA)は、2013年2月8日に最初の人工通信衛星Azerspace-1を打ち上げました。現在も音声、データベース、インターネット、テレビ、ラジオなどに利用されています。2018年9月25日にはAzerspace-2が打ち上げられました。
12. 医療
2016年の国連の報告によると、男性の平均寿命は69.6歳、女性は76歳です。2016年の初めまでに559の病院、1750の外来クリニック、79の緊急医療援助ステーション、137の女性クリニック、250の小児外来クリニック、68の療養所があり、3万人以上の医師と5万人以上の緊急隊員が働いています。13. 教育
6歳から17歳までは義務教育です。6歳から4年間の初等教育を受け、10歳で試験を受けると一般中等教育が5年生から9年生まで続き、完全中等教育は10・11年生にあたります。高等教育の一部の技術分野ではロシア語が好まれます。ソビエト連邦の時代、非識字は事実上排除され、教育機関のネットワークが確立された歴史があります。実際ユネスコのデータによると、アゼルバイジャンの成人の識字率は2019年時点で100%となっています。最も有名な大学はハザール大学、アゼルバイジャン国立石油産業大学、バクー州立大学、ADA大学です。その他、アゼルバイジャン国立経済大学(1929〜、貿易/金融/経済)やアゼルバイジャン医科大学(1930〜、一般医学/歯科/小児科/薬学)、アゼルバイジャン国立言語大学(1937〜、ロシア語/英語/フランス語)、アゼルバイジャン国立文化芸術大学(1945〜)、アゼルバイジェン工科大学(1950〜、機械科学/金属工学/無線工学/通信・輸送)、アゼルバイジャン国立科学アカデミー(1945〜、サイバネティクス/物理学/化学/石油化学/遺伝学)などがあります。
14. 美術
歴史的には、紀元前3千年期のカルバハル地域のザルカ湖周辺(アイチンギル山とパリチンギル山)にある絵画、紀元前8世紀から5世紀のゴブスタンの岩絵、ガミガヤ山脈の岩絵が記録されています。13〜14世紀にかけて書道と細密画が発展し、タブリーズの街がその中心地となりました。19世紀初頭、アゼルバイジャンの北部がロシアに併合されると、美術はリアリストの傾向を強め、’Molla Nasreddin’ などの雑誌や書籍の出版によって、社会的・政治的問題に共鳴する風刺的なイラストなどが作られました。カーペットアートは科学の一分野として研究されたのちにアーティストによって発展を遂げ、2010年末にユネスコの無形文化遺産に登録されています。
15. 文学
最古の例は、預言者ツァラトゥストラとキタビ・ダダ・ゴルグード叙事詩に起因する本「アヴェスタ」です。中世の時代には、モーラ・ヴァリ・ヴィダディとモーラ・パナー・ヴァキフはアゼルバイジャン文学のリアリズムの基礎を築きました。19世紀、西洋文学との統合によって詩人や作家が育ち、ミルザ・ファタリ・アクンザデによって戯曲論、演劇論の基礎が確立されます。彼はアゼルバイジャン文学批判を行ったことでも知られます。20世紀初頭、ムハンマド・ハディ、フセイン・ジャビッド、アッバス・サハトは、アゼルバイジャン文学におけるロマン主義の基礎を築きました。1939年にアゼルバイジャン国立文学博物館が設立された他、 ミルザ・アラクバ・サバーは東部に文学学校を開きました。16. 音楽
他民族の共存や複雑な歴史を経て、折衷的かつ多様な音楽が発展しています。ムガム、メイカーナなどの民俗音楽はその一例です。 20世紀には西洋のクラシック音楽が浸透しました。同じ時期、ウゼイル・ハジベヨフは1907年にイスラム世界で最初のオペラである「レイリとマジュヌン」を作曲し、国内にオペラ芸術の基礎を築きました。これがオペレッタの発展と並び、のちに現代のバレエ芸術に結実します。ジャズ、ロック、ヒップホップなどの現代音楽は絶えず発展しており、2011年には「ランニング・スケアード」がユーロビジョン・ソング・コンテストで優勝しました。
17. 映画
1898年に始まるアゼルバイジャン映画の歴史において、最初の映画は年代記の筋書きが中心でした。1915年に小説「石油と百万の王国で」をもとに、石油産業家の資金で初めての長編映画が撮影され、1916年にオペレッタ「アルシン・マル・アラン」に基づく最初のコメディーが、1919年に建国記念日の祝祭を撮影した最初の長編ドキュメンタリーが制作されました。1950年台後半から活発化し、1970〜90年に特に多くの作品が撮影されました。
ソ連崩壊後の最初の時期に起こった権力闘争やカラバフ戦争などは映画産業の発展を妨げていましたが、2000年代終わりにアゼルバイジャンの映画が世界映画祭に参加し、賞を受賞しました。特にアメリカ映画アカデミーのオスカー賞で最優秀外国映画にノミネートされるなどの高い評価を受けています。
18. 競技
伝統的なスポーツにはレスリングのほか、バックギャモンやチョフケン、ゾルハナなどがあります。柔道や空手、ボクシングなどの格闘技も普及している他、2015年にヨーロッパ大会が、2017年にイスラム連帯試合が開催されました。アゼルバイジャンは1996年からオリンピックに出場しており、金7個、銀25個、銅43個のメダルを獲得しています。・サッカー:1992年にアゼルバイジャンプレミアリーグが設立されて以降、人気が高まっています。アゼルバイジャン出身のカラバフ、ガバラ、ネフチはヨーロッパリーグでUEFAチャンピオンズリーグとヨーロッパリーグに複数回参加しています。2019年、ヨーロッパリーグの決勝戦がバクー・オリンピックスタジアムで開催された他、2021年にUEFAユーロのグループステージと準々決勝を開催しました。
・バレーボール:欧州女子CEVチャレンジカップではアゼレールとロコモティブ・バクーが優勝しています。
・チェス:FIDE(国際チェス連盟)のランキングでは、アゼルバイジャンは世界ランキング6位の強豪国です。男子チェスチームは3回のヨーロッパチャンピオンであり、女子チームはヨーロッパ選手権の銅メダリストです。2016年の第42回チェスオリンピックがバクーで開催され、グランドマスターのティムール・ラジャボフは2019年、ワールドチェスカップで優勝しました。
2000年以降、バクーカップ、2016年U-17欧州サッカー選手権大会、2012年FIFA U-17女子世界選手権大会、2010年欧州レスリング選手権大会、第25回欧州新体操選手権大会、2018年柔道世界選手権大会などの国際スポーツ大会が2000年からアゼルバイジャンで開催されました。自転車レースとフォーミュラ選手権のアゼルバイジャングランプリは毎年開かれています。
19. 建築
東洋と西洋の要素が混在し、乙女の城やシルヴァンジャー宮殿などの古代建築からソビエト時代の労働者集落、現代の高層ビルや博物館などが並んでいます。10世紀から12 世紀にかけて建築学校が設立され、教育も発展してきました。[歴史的建造物]
(A)乙女の塔
世界遺産に登録された拝火教の塔です。旧市街の海岸に面し、屋上からはカスピ海を眺めることができます。現在は地域の歴史が展示される博物館となっています。
この地において拝火教の歴史は古く、商人としてこの地に住んでいたインドの拝火教徒が郊外に寺院を建立して以降、現在はインドやイランの拝火教徒にも聖地と見做されるようになりました。文字通り火を拝める拝火教徒にとって、天然ガスがしばしば自然発火するこの地は特別とされたのです。バクーの北には、2000年前から現在に至るまで燃え続けていると言われる丘もあります。
(B)シルヴァンシャーの宮殿
16世紀までこの地を支配したシルヴァンシャーの王宮です。大地震を機にこの地に移り、モンゴル来襲やティムール帝国支配を経て、この地で繁栄しました。現在は博物館として民族衣装や楽器などが展示されています。
(C)モスク
特に金曜モスクは、中世には政治や文化の中心として機能したイスラム教の聖地。かつて州裁判所が位置し、全ての政令はこの施設から発令されました。
郊外のビビヘイバット・モスクは、難病治癒の力を持っていたという伝説のあるウケイマ婦人のお墓の上に建てられたモスクで、イスラム圏の主要な聖地となっています。
(D)隊商宿
ムルターニ・キャラバンサライと呼ばれ、かつての中央・南アジアとの密接な関係が伺えます。レストランなどに改装されているところもあります。
[近代建築]
(E)フレームタワー
350億円をかけて完成された3つのビル群で、一説にはアゼルバイジャンの由来とされる「火の国」になぞらえて、ゆらめく炎の形が表現されています。夜はライトアップされ、独特の近代感が目を引きます。
(F)ヘイダル・アリエフ・センター
設計者のザハ・ハディッド氏は、東京オリンピックの新国立競技場建設案でも話題になりました。アゼルバイジャン前大統領の記念館であり、波打つような曲線美が特徴的な近代アートです。
20. 通貨マナト
現在の為替は、1ドル1.70マナトをほぼ厳密に維持しています。歴史的には、2015年2月にドルとのペッグ制から通貨バスケット制に移行したものの、FRBの利上げや原油安を受けて12月に変動相場制に移行し、大きく下落した経緯があります。その後2017年にアゼルバイジャン中央銀行は、マナトをフロートさせて短期的な変動を防ぐためにのみ介入すると約束しており、実際それ以降は原油価格の変動やFRBの利上げ等に遭っても安定しています。銀行は明言していませんが、ホームページ上でドルの売買を報告し続けています。現在は原油価格が上昇傾向にあるため外貨準備が積み上げられており、これの売却によって安定させています。
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